彌美神社例大祭

彌美神社の例祭は5月1日に行われ、耳川流域に点在する旧耳庄十八集落(現行行政区による。もと十四集落)が神事役を分担する。

 

現祭神は室毘古王(むろびこのみこ・開化天皇の第三皇子である日子坐王(ひこいますのみこ)の子)・建御雷神・天児屋根命・布都主(ふつぬし)神・比咋(ひめ)大神・大山衹命。彌美神社は江戸時代まで「二十八所大明神」と呼ばれていたが、明治二年に「彌美神社」と復称して現在に至っている。なお、室毘古王は現在の耳地区一帯を治めていた「若狭耳別(わかさのみみわけ)」という一族の祖であり、郷市に所在する「獅子塚古墳(前方後円墳)」はそのゆかりの古墳である可能性が高いといわれている。

 

祭礼では、大御幣の幣招き(幣振り)、一本幣の幣招き、幣迎え、幣押し、幣納め、王の舞(別項参照)・獅子舞と進行する。神輿はない。(織田神社に盗まれたという言い伝えがある。)獅子舞は時折暴れ出す獅子を警護が取り押さえようとする様子が笑いを誘う。

 

古くは「廿八所祭礼膳之日記」(永禄五年〔1562〕)に「御幣村」「上村(あげむら)」「下村(さげむら)」「王村」「獅子村」「田楽村」「神子(みこ)」とあり、幣組は和田・河原市、佐柿・坂尻、宮代・中寺・寄戸・五十谷・安江の通称「五ヶ」と興道寺の十集落四組、王の舞は麻生・東山、獅子組は「大サンガ」と呼ばれる野口・佐野・上野が奉仕し、この分担は昔から変わらない。新庄は大日の仏洞のヨボの木(リョウブ)に彌美の大神が天降ったという縁起にちなみ、毎年ヨボの木で作った一本幣とコブシの木の七本幣を奉納することになっている。また、このことから、祭礼では新庄区は他地区より優位に立ち、他集落が新庄の控所(園林寺)に一本幣・七本幣を早く出してくれるよう(これが出ないと祭礼が始まらない)に数回催促を繰り返さないと動かない。また、長床では他集落よりも一段高い場所に座する。

このほか浦安の舞は新庄、乙女の舞は南市が受け持っており、南市は以前は山車(やま)も出していた。田楽村には木野が比定されているが、天保の頃以降は脱落したままになっている。

 

当社の春季例大祭は、このように古くから旧耳庄の惣鎮守社の氏子集落によって受け継がれてきた。春祭りを華やかに彩る王の舞(おのまい)と獅子舞、浦安の舞・乙女の舞が奉納され、なかでも王の舞は昭和三一年(1956)に福井県無形民俗文化財に指定されているが、とりわけ「御膳」と呼ばれる当社特有の神饌は、全国に例を見ないとされており、餅細工の鳥居や稲穂、鯛・日・月・鎌・鉈・斧・鋸が神前に奉納される。

なお、彌美神社に隣接する園林寺(真言宗)はかつては彌美神社の別当寺であり、祭礼も園林寺が管理していた。

 

(引用・参考文献:わかさ美浜町誌「美浜の文化第二巻 祈る・祀る」・「美浜の文化第四巻 舞う・踊る」)

 

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